こうして抱かれることがこれほどの悦びであるかぎり、その誘惑のささやきに逆らうことなんて、できるはずもない。私には、いつでも服を脱ぐ用意がある。
 体の力を抜いてすべてをゆだねるだけで、音が遠ざかり、気持ちがとけ込んでいく。
 なにも考えなくていい。それだけで、いらないことを忘れさせてくれるのだ。
 ――ずっとこうしていたい。
 でも、それは許されない。
 ひとつになっていられる時間は短すぎる。
 ……息が続かないから。
 空を見上げるために、水中で体をひねり、そのまま仰向けになって浮かび上がる。
 遠くに聞こえていた音が、だんだん耳元に近づいてきた。
「そっか、雨降ってたんだっけ……」
 もう時間も遅い。あかるい空がないのは当たり前だったんだ。
 空が暗くなるまで、ひとりきりで練習をするのは慣れたけど、いつまで経っても寒いのだけはだめ。今日はそろそろあがろう……。
 ここで風邪をひいたら、いい笑い者だ。


 更衣室の電気をつけると、いちばん奥のシャワーブースに入って、勢いよく蛇口を回した。
 体が冷えているときに、ちゃんとお湯が出てくれるのはすごくありがたい。
 視界が湯気で真っ白になっていく。
 タオルを隣のドアに掛けると、私は思い切って頭から飛び込んだ。
 シャワーの熱さが冷えた体を塗り替えていく。
 首筋をなでて、胸へと伝わり、やがて足元にまでたどり着く。
 全身にぬくもりが染み込んでくる。
 ――気持ちいい……。
 同時に練習のあとのけだるい感じが、重く圧し掛かる。
 温度の上がった体が、もう動きたくないと言いはじめた。
 ――このまま寝れたら幸せなんだけどな……。
 毎日のように思うけど、結局いつも我慢することになる。
 それは今日も同じで、こうして水着に手を掛けるしかない。
 肩紐を落として、両腕を抜く。膝くらいまで下ろして、右足だけを抜いてから、左足を上げて膝にまとわりついた水着を拾った。
 シャワーの勢いをさらに上げる。
 水の中にいるときとは違うけど、それでも音が遠くになっていくような感覚が気持ちいい。
 首をがっくりと床に向けると、排水溝に集まっていく水の渦が見えた。
 しなだれかかってくる髪の毛が真っ直ぐに下を目指している。
「…………」
 タイムを縮めるためには切ったほうがいいって、ずっと言われて来た……。
 でも、誰に何を言われても、その分ムキになって練習して、ここまでたどり着いたんだ……。
 別に、伸ばしたい理由があるわけじゃない。
 ただ……意地っていうか、なんて言うか。
「……でも」
 あんなことがあったから、髪を気にしてしまう。
 考えないようにしても、あのことを思い出してしまう。
「やっぱり……髪、切ろうかな……」
 ――あんなことがあったから……。



「いいんじゃない? 速瀬ならショートも似合うと思うけど」
 お弁当を突付きながら、慎二は目を細めた。
「ほんと〜に、そう思う?」
 机から身を乗り出して慎二の顔を覗き込む。
「そう言われると自信ないかも……」
 慎二はくちごもりながら、さりげなく椅子を引いて距離をとった。
 別に彼のこと信用してないとか、そういうワケじゃないんだけど、ずっと伸ばしてたから……やっぱり不安だったりする。
「なんなら孝之にも訊いてみたら?」
「あっ、そ、それは絶対だめっ!」
「なんで?」
 ……なんでって……だって、それは……。
 ――ショートのほうが似合うんじゃねぇの?
 あの言葉が切っ掛けだなんて思われたら……。
「……速瀬?」
「と、とにかく孝之はだめっ!」
「でけぇ声出して、オレになんか用か?」
 ――!?
「たっ、孝之!?」
 ウソでしょ……もしかして、ずっと聞いてた?
 ううぅぅ〜っ、すっごい困る。
「べ、別に用なんて……い、いつからいたのよ!」
「な、なんだよいきなり……うるせえ奴だなあ。だいたい、声でかいんだよ」
 なによぉ……誰のせいだと思ってるのよぉ!
 孝之がいきなり来るのがいけないんだからねっ!
「騒いでもやらんぞ……オレのやきそばパン」
 孝之は座ると、がさごそと紙袋の中をあさった。
 ……大丈夫だったのかな? 聞かれてなかったのかな?
 それだと助かるんだけど……。
「……おい、速瀬」
 ――!!
「なっ、なによぉ」
「じっと見つめないでくれるか。オレは食事を楽しみたいんだ」
 ……おどかさないでよ。
「もしかして……ケンカ売ってる?」
「いや、オレはそこまでチャレンジャーじゃないから安心してくれ」
「……ど〜いう意味ィ?」
「そのままだよ。な、慎二」
「……ははは」
 なによ、もう……。
 そりゃ確かに、水泳やってるせいで、普通の女の子よりは肩幅とかあったりするかもしれないけど……。
 ……前はそんなの、全然気にならなかったのに。
 なぜかわからないけど……最近、そういうの、ちょっと傷つく。
 私だって……女の子なんだ……よ?
「で、何の話だ? なんかオレが話題になってたみたいだけど?」
 ――!!!!
「それが、速瀬がさ……」
「あっ、だめっ! 絶対に、だめぇ!」
「だ〜か〜ら〜、いきなりでかい声を出すなって……」
 ――ショートにしようと思っているんだけど……どう思う?
 なんて……言えるわけないよぉ〜。
 そんなことしたら……からかわれるに決まってるよぉ。
「速瀬がショートにするかどうかで悩んでるんだよ」
 ――げっ
「あれ……言っちゃまずかった?」
 だ・か・らぁ! さっきからそう言っているのにぃ〜!
 どうしてくれるのよ〜、もう〜っ!!
 孝之の顔、まともに見れないよ。
 お願いだから、何も言わないで……。
「いいんじゃねぇの、そのままで」
「はい?」
 ……今、なんて言った?
「なに驚いてんだよ。おかしなやつだな」
 おかしくなんてない!
 孝之が前とぜんぜん違うこと言うからいけないんじゃない!
 そんな風に言われるのこれぽっちも準備してなかったんだから……。
「ばっさりやって似合わなかったら致命的だぞ。その長さからだと」
「あんた狂牛病!」
「おいおい、なんだよ、いきなり」
 なによ……悩んだ私がばかみたいじゃない。
 自分が言ったことも覚えてないなんて、最低。
 孝之がショートの方が似合うって言うから……。
 それなのに……。
 ばか……。
「なんだよ、人を狂牛病呼ばわりしておいて不満そうだな?」
「うるさい!」
「いきなりキレるなって……どうしたんだよ、今日、変だぞおまえ」
「もう出てけぇ!」
 ――ほんと、最低!!
 私……ばかみたい。
「あっ、速瀬!?」
「おまえが出てくんかい!」
 反射的に走りだしてしまった。
 一秒でもこの場にいるのが辛い。
 勝手に舞い上がった自分が恥かしい。
 とにかくここから……。
「お〜い、このオニギリもらっていいのか〜?」



「どうでもいいことなのかな……」
 その言葉は、し〜んとした更衣室に響き渡った。
 短くても、長くても、どっちでもいいってことなのかな……。
 水滴の落ちる、ぴとんって音だけが、透明な空気を真っ直ぐに伝わって、私の耳を刺激した。
 タオルを取って頭をしぼるようにして巻き付ける。
 これのおかげで大きいのが2枚も必要になるから、どうしても荷物がやたらとふくらんでしまう。
 毎日、どこかにお泊りみたいなバッグを持って歩くのは、それだけで大変だったりする。
 制服に着替えたところで頭のタオルを外した。
 ――わさっ……。
 首筋に濡れた髪が触れてぞくっとした。
 鏡に映った自分の顔を見て、短くしたらどんな感じかを想像したけど上手くいかなかった。
 軽くドライヤーを当てて、1本に束ねる。
「よしっ」
 ニッと笑ってみせてから、鏡の前を離れた。
 バッグを肩に掛けて更衣室のドアを開けた。その瞬間、通路を吹き抜ける風が足元をさらっていった。
 空からは大粒の雨が降ってきて、乾かしたばかりの髪を再び濡らしていく。
 ――そうだった。
「雨、降ってたんだっけ……」
「ったく、独り言の多い奴だな」
「うああああっ!」
 ――なに!? 誰!?
「なに、びびってんだよ」
 ……あ。
 私が濡れないように傘を傾けて、すぐ横に孝之がいた。
「だいたいおまえ、うわあってなんだよ。女なんだから、もっとかわいい悲鳴を……」 
 おどかさないでよ、もう。
 まだ心臓がどきどきしてる。
 でも、なんで? どうしているの?
「慎二が行けってうるさくてな」
「……慎二が?」
「急に降ったろ……おまえ傘持ってないだろうって」
「あ、うん……」
「大会前の猛特訓はいいけどさ、雨降ってまでやるか?」
「……うん、そうだね」
「なんだ、やけに素直だな」
 だって……こんな風にしてくれたら、うれしいに決まってるじゃない。
 文句なんて、言えない。
「ほら、行くぞ。向こうで慎二も待ってっから」
「あ、うん。でも、なんで、こんな時間まで学校にいたの?」
「ん? ああ、慎二が図書室に用があるって言うから、それに付き合って……」
「こんな時間まで?」
「まさか」
 鼻で笑って、孝之は歩き出そうとする。
 なら、どうして、こんな時間までいたのよ?
 他に用事もないんだから、さっさと帰ればよかったのに。
 いつもなら、誰よりも早く学園の門を出て行くくせに。
 最後に来て、最初に出ていくのが孝之のパターンでしょ?
 それなのに……。
「おい、ボーっとしてんなよ。濡れて帰られたんじゃ、意味ないだろ」
「あ、うん……」
 ――あっ……。
 ……まさか……待っててくれた……の?
 練習が終わるまで……?
 私のためにこんな時間まで待っててくれたの?
 ……どうして?
 昼休みのこと、気にして?
 まさか……反省なんて、孝之らしくない。
 でも……なんだろう……これ。
 ――すごくうれしい。
「――って、お前、オレの話……聞いてる?」
「え? ――あははっ、ごめんごめん」
「……なんか気色悪いぞ」
 ……はぁ、考え過ぎか。
 やっぱりいつもの孝之だ。
 でも、今は気分がいいから特別に許してあげる。
 昼間のこと――もう、どうでもいいや。
 こうして待っていてくれていたことが、本当に大切なことだと思うから……。
 ――でも……だけど、ここから先には……。
 ――進んじゃいけないんだ。
 大切なままで終わりにしないと……。
「ほら、ちゃんと傘に入れ」
 そうでないと、もうひとつの大切なものを裏切ることになってしまう。
 はじめはそんなつもりじゃなかったのに……。
 いつからこうなっちゃったんだろう。
 ――孝之は駄目だって……わかってるのに。
「あのな……」
「はいはい、わかりました」
 私……この時間を手放したくないって思ってる。
 ずっとこのままだったらいいのにって……。
 それはいけないことだってわかってるけど……。
 スタート前になら、このレースを棄権することもできた。
 だけど、私は……気付いてしまった。
 もう水に飛び込んでしまった後だという事を……。


 こうして抱かれることがこれほどの悦びであるかぎり、その誘惑のささやきに逆らうことなんて、できるはずもない。私には、いつでも服を脱ぐ用意がある。
 体の力を抜いてすべてをゆだねるだけで、音が遠ざかり、気持ちがとけ込んでいく。
 なにも考えなくていい。それだけで、いらないことを忘れさせてくれるのだ。
 ――ずっとこうしていたい。
 でも、それは許されない。
 ひとつになっていられる時間は短すぎる。
 ……息が続かないから。
 空を見上げるために、水中で体をひねり、そのまま仰向けになって浮かび上がる。
 遠くに聞こえていた音が、だんだん耳元に近づいてきた。
「そっか、雨降ってたんだっけ……」
 もう時間も遅い。あかるい空がないのは当たり前だったんだ。
 空が暗くなるまで、ひとりきりで練習をするのは慣れたけど、いつまで経っても寒いのだけはだめ。今日はそろそろあがろう……。
 ここで風邪をひいたら、いい笑い者だ。


 更衣室の電気をつけると、いちばん奥のシャワーブースに入って、勢いよく蛇口を回した。
 体が冷えているときに、ちゃんとお湯が出てくれるのはすごくありがたい。
 視界が湯気で真っ白になっていく。
 タオルを隣のドアに掛けると、私は思い切って頭から飛び込んだ。
 シャワーの熱さが冷えた体を塗り替えていく。
 首筋をなでて、胸へと伝わり、やがて足元にまでたどり着く。
 全身にぬくもりが染み込んでくる。
 ――気持ちいい……。
 同時に練習のあとのけだるい感じが、重く圧し掛かる。
 温度の上がった体が、もう動きたくないと言いはじめた。
 ――このまま寝れたら幸せなんだけどな……。
 毎日のように思うけど、結局いつも我慢することになる。
 それは今日も同じで、こうして水着に手を掛けるしかない。
 肩紐を落として、両腕を抜く。膝くらいまで下ろして、右足だけを抜いてから、左足を上げて膝にまとわりついた水着を拾った。
 シャワーの勢いをさらに上げる。
 水の中にいるときとは違うけど、それでも音が遠くになっていくような感覚が気持ちいい。
 首をがっくりと床に向けると、排水溝に集まっていく水の渦が見えた。
 しなだれかかってくる髪の毛が真っ直ぐに下を目指している。
「…………」
 タイムを縮めるためには切ったほうがいいって、ずっと言われて来た……。
 でも、誰に何を言われても、その分ムキになって練習して、ここまでたどり着いたんだ……。
 別に、伸ばしたい理由があるわけじゃない。
 ただ……意地っていうか、なんて言うか。
「……でも」
 あんなことがあったから、髪を気にしてしまう。
 考えないようにしても、あのことを思い出してしまう。
「やっぱり……髪、切ろうかな……」
 ――あんなことがあったから……。



「いいんじゃない? 速瀬ならショートも似合うと思うけど」
 お弁当を突付きながら、慎二は目を細めた。
「ほんと〜に、そう思う?」
 机から身を乗り出して慎二の顔を覗き込む。
「そう言われると自信ないかも……」
 慎二はくちごもりながら、さりげなく椅子を引いて距離をとった。
 別に彼のこと信用してないとか、そういうワケじゃないんだけど、ずっと伸ばしてたから……やっぱり不安だったりする。
「なんなら孝之にも訊いてみたら?」
「あっ、そ、それは絶対だめっ!」
「なんで?」
 ……なんでって……だって、それは……。
 ――ショートのほうが似合うんじゃねぇの?
 あの言葉が切っ掛けだなんて思われたら……。
「……速瀬?」
「と、とにかく孝之はだめっ!」
「でけぇ声出して、オレになんか用か?」
 ――!?
「たっ、孝之!?」
 ウソでしょ……もしかして、ずっと聞いてた?
 ううぅぅ〜っ、すっごい困る。
「べ、別に用なんて……い、いつからいたのよ!」
「な、なんだよいきなり……うるせえ奴だなあ。だいたい、声でかいんだよ」
 なによぉ……誰のせいだと思ってるのよぉ!
 孝之がいきなり来るのがいけないんだからねっ!
「騒いでもやらんぞ……オレのやきそばパン」
 孝之は座ると、がさごそと紙袋の中をあさった。
 ……大丈夫だったのかな? 聞かれてなかったのかな?
 それだと助かるんだけど……。
「……おい、速瀬」
 ――!!
「なっ、なによぉ」
「じっと見つめないでくれるか。オレは食事を楽しみたいんだ」
 ……おどかさないでよ。
「もしかして……ケンカ売ってる?」
「いや、オレはそこまでチャレンジャーじゃないから安心してくれ」
「……ど〜いう意味ィ?」
「そのままだよ。な、慎二」
「……ははは」
 なによ、もう……。
 そりゃ確かに、水泳やってるせいで、普通の女の子よりは肩幅とかあったりするかもしれないけど……。
 ……前はそんなの、全然気にならなかったのに。
 なぜかわからないけど……最近、そういうの、ちょっと傷つく。
 私だって……女の子なんだ……よ?
「で、何の話だ? なんかオレが話題になってたみたいだけど?」
 ――!!!!
「それが、速瀬がさ……」
「あっ、だめっ! 絶対に、だめぇ!」
「だ〜か〜ら〜、いきなりでかい声を出すなって……」
 ――ショートにしようと思っているんだけど……どう思う?
 なんて……言えるわけないよぉ〜。
 そんなことしたら……からかわれるに決まってるよぉ。
「速瀬がショートにするかどうかで悩んでるんだよ」
 ――げっ
「あれ……言っちゃまずかった?」
 だ・か・らぁ! さっきからそう言っているのにぃ〜!
 どうしてくれるのよ〜、もう〜っ!!
 孝之の顔、まともに見れないよ。
 お願いだから、何も言わないで……。
「いいんじゃねぇの、そのままで」
「はい?」
 ……今、なんて言った?
「なに驚いてんだよ。おかしなやつだな」
 おかしくなんてない!
 孝之が前とぜんぜん違うこと言うからいけないんじゃない!
 そんな風に言われるのこれぽっちも準備してなかったんだから……。
「ばっさりやって似合わなかったら致命的だぞ。その長さからだと」
「あんた狂牛病!」
「おいおい、なんだよ、いきなり」
 なによ……悩んだ私がばかみたいじゃない。
 自分が言ったことも覚えてないなんて、最低。
 孝之がショートの方が似合うって言うから……。
 それなのに……。
 ばか……。
「なんだよ、人を狂牛病呼ばわりしておいて不満そうだな?」
「うるさい!」
「いきなりキレるなって……どうしたんだよ、今日、変だぞおまえ」
「もう出てけぇ!」
 ――ほんと、最低!!
 私……ばかみたい。
「あっ、速瀬!?」
「おまえが出てくんかい!」
 反射的に走りだしてしまった。
 一秒でもこの場にいるのが辛い。
 勝手に舞い上がった自分が恥かしい。
 とにかくここから……。
「お〜い、このオニギリもらっていいのか〜?」



「どうでもいいことなのかな……」
 その言葉は、し〜んとした更衣室に響き渡った。
 短くても、長くても、どっちでもいいってことなのかな……。
 水滴の落ちる、ぴとんって音だけが、透明な空気を真っ直ぐに伝わって、私の耳を刺激した。
 タオルを取って頭をしぼるようにして巻き付ける。
 これのおかげで大きいのが2枚も必要になるから、どうしても荷物がやたらとふくらんでしまう。
 毎日、どこかにお泊りみたいなバッグを持って歩くのは、それだけで大変だったりする。
 制服に着替えたところで頭のタオルを外した。
 ――わさっ……。
 首筋に濡れた髪が触れてぞくっとした。
 鏡に映った自分の顔を見て、短くしたらどんな感じかを想像したけど上手くいかなかった。
 軽くドライヤーを当てて、1本に束ねる。
「よしっ」
 ニッと笑ってみせてから、鏡の前を離れた。
 バッグを肩に掛けて更衣室のドアを開けた。その瞬間、通路を吹き抜ける風が足元をさらっていった。
 空からは大粒の雨が降ってきて、乾かしたばかりの髪を再び濡らしていく。
 ――そうだった。
「雨、降ってたんだっけ……」
「ったく、独り言の多い奴だな」
「うああああっ!」
 ――なに!? 誰!?
「なに、びびってんだよ」
 ……あ。
 私が濡れないように傘を傾けて、すぐ横に孝之がいた。
「だいたいおまえ、うわあってなんだよ。女なんだから、もっとかわいい悲鳴を……」 
 おどかさないでよ、もう。
 まだ心臓がどきどきしてる。
 でも、なんで? どうしているの?
「慎二が行けってうるさくてな」
「……慎二が?」
「急に降ったろ……おまえ傘持ってないだろうって」
「あ、うん……」
「大会前の猛特訓はいいけどさ、雨降ってまでやるか?」
「……うん、そうだね」
「なんだ、やけに素直だな」
 だって……こんな風にしてくれたら、うれしいに決まってるじゃない。
 文句なんて、言えない。
「ほら、行くぞ。向こうで慎二も待ってっから」
「あ、うん。でも、なんで、こんな時間まで学校にいたの?」
「ん? ああ、慎二が図書室に用があるって言うから、それに付き合って……」
「こんな時間まで?」
「まさか」
 鼻で笑って、孝之は歩き出そうとする。
 なら、どうして、こんな時間までいたのよ?
 他に用事もないんだから、さっさと帰ればよかったのに。
 いつもなら、誰よりも早く学園の門を出て行くくせに。
 最後に来て、最初に出ていくのが孝之のパターンでしょ?
 それなのに……。
「おい、ボーっとしてんなよ。濡れて帰られたんじゃ、意味ないだろ」
「あ、うん……」
 ――あっ……。
 ……まさか……待っててくれた……の?
 練習が終わるまで……?
 私のためにこんな時間まで待っててくれたの?
 ……どうして?
 昼休みのこと、気にして?
 まさか……反省なんて、孝之らしくない。
 でも……なんだろう……これ。
 ――すごくうれしい。
「――って、お前、オレの話……聞いてる?」
「え? ――あははっ、ごめんごめん」
「……なんか気色悪いぞ」
 ……はぁ、考え過ぎか。
 やっぱりいつもの孝之だ。
 でも、今は気分がいいから特別に許してあげる。
 昼間のこと――もう、どうでもいいや。
 こうして待っていてくれていたことが、本当に大切なことだと思うから……。
 ――でも……だけど、ここから先には……。
 ――進んじゃいけないんだ。
 大切なままで終わりにしないと……。
「ほら、ちゃんと傘に入れ」
 そうでないと、もうひとつの大切なものを裏切ることになってしまう。
 はじめはそんなつもりじゃなかったのに……。
 いつからこうなっちゃったんだろう。
 ――孝之は駄目だって……わかってるのに。
「あのな……」
「はいはい、わかりました」
 私……この時間を手放したくないって思ってる。
 ずっとこのままだったらいいのにって……。
 それはいけないことだってわかってるけど……。
 スタート前になら、このレースを棄権することもできた。
 だけど、私は……気付いてしまった。
 もう水に飛び込んでしまった後だという事を……。



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