電光掲示板の上にある大きな時計が、2時を指した。
――時間だ。
『これより、女子100m自由型、決勝を行います……』
アナウンスの声にざわめきが掻き消されていく。
――はじまるんだ。
放送のなごりが消えて、次第に客席が騒がしさを取り戻していく。
さっきまでとはまったく違った空気が、会場を満たしていた。
――緊張する。
わたしが泳ぐわけじゃないのに……これからはじまるって思っただけで、こんなに胸が高鳴るなんて……。
あそこに……電光掲示板の1番上に、先輩の名前が表示されるのを、もう待ちきれないでいる。
そのとき、ひときわ大きな歓声が上がった。
予選を勝ち進んだ選手達が一列に並んで、それぞれのコースの前までやってくる。その足取りは堂々としていた。
――水月先輩……。
探すのは簡単だった。
先輩はいつも中央のコースにいるから。
声援が送られる中で、1コース目から選手の紹介がはじまった。
すべての視線が選手達に注がれる瞬間。
――わたしも、あの場所にいきたい。
先輩と同じところに……。
――先輩と同じコースを泳ぎたい。
予選でもはじっこばっかだもんな、わたしなんて……先輩はすごいよ。
『……速瀬水月、白陵大附属柊学園』
それまでと比較にならない声援が送られる。平日だから学園生が応援にきてるわけじゃない。それなのに、ここにいるみんなが先輩を見てる。
知ってるんだ。すごいってことを……。
響き渡る歓声を吸い込むように、先輩はゆっくりと立ち上がった。
水面を見据える真剣な表情。それはわたしのいちばん好きな顔。
――こういう時って何を考えてるんだろ。
決勝まで残ったことないから、わたしには想像もできないけど。
先輩でも緊張とかするのかな?
……しないわけないか。
選手紹介が終わると、スタートの準備に入った。
張り詰めた雰囲気が高まっていく。
飛び込み台の上に先輩が足をかけた。
審判の合図で身をかがめる。
――はじまるっ!
次の瞬間、大きな水しぶきがあがった。けど、その音はここまで届かない。
すべてが声援で埋め尽くされていた。
このレースが会場全体を動かしていた。
頭が真っ白になっていく感じがした。
何度も何度の先輩の名前を叫んだ。その辺にいるひとの迷惑なんて、どうでもよくなってくる。先輩の試合を見るときはいつもそう。夢中になって、自分の周りが見えなくなる。
他の選手、ましてやわたしにはない魅力を、先輩の泳ぎは持っているんだ。何が違うのかはわからない。
わからないからこそ、惹かれてしまう。
――いつか、わたしも先輩みたいになりたい。
泳ぐことで、ひとの心を動かせるように。
ターンを前にして、先輩はトップから体半分ほど遅れていた。
決勝ともなれば、周囲にいる選手だってすっごくはやい。
トップを泳ぐひとなんて、先輩と同じで、強化指定の選考対象になったんだから。
でも、少しも不安じゃない。
だって、先輩はここからだから。
50メートルのターンから上がったところで、ひとりを抜き去った。
すごいっ!
目に見える早さで、トップとの距離が縮まっていく。
またひとりかわした。
――これで、あとひとりっ!
コースロープの色が青から黄色……そして白へ。
――残り5メートルっ!
あと頭ひとつぶん……けど絶対に大丈夫っ!
だって、先輩だもん。
のどがつぶれるくらいに声をあげた。
先輩がトップに並んだ。
……そして、ふたりは同時にゴールした……ように見えた。
会場がどよめきに溢れる。
みんなの視線が電光掲示板に注がれる。
……すんごくどきどきしてきた……。
自分の結果のときより、もっとすごいよ。
――どっちだろ……ううん、そんなの決まってる。
先輩が負けるはずない!
今朝、わたしに約束してくれたんだから。優勝できなかったら、好きなものをおごってくれるって。今までに何度もやったけど、この賭けに勝ったことはいちどもない。
同着に見えた隣のコースの選手がすごいのもわかる。だけど、本当にすごいのは先輩だけなんだから。
絶対に負けちゃいけなんだから。
誰もが電光掲示板に目を奪われてる中で、水月先輩だけは、けだるい感じを楽しむようにコースロープに寄り掛かって浮かんでいた。
――ここの掲示板の反応が遅いのを知ってるんだ。
先輩がキャップを取る。綺麗な長い髪が水面に広がった。
それから、首だけを真横に向けて、電光掲示板を視界にいれた。
先輩が見てくれるのを待っていたみたいに、オレンジ色の光が灯った。
静かになっていた会場に、どっと歓声が湧いた。
1番上には、『MITSUKI HAYASE』の名前があった。
無意識のうちに立ちあがっていた。隣のひとも、その隣のひとも、そうだった。
先輩に目を向けると、こっちを見ていた。
――今日もおごりはなしですね。
口だけ動かして、そう言うと、先輩は笑ってみせた。
もしかして、伝わったのかな?
……って、んなわけないか。
それから、わずかの差で敗れ去った隣のコースのひとに 話しかけられていた。
ふたりとも楽しそうにしてる。
高いレベルで競い合う相手がいて、レースのあとで、あんな風に笑って話せるのって、どんな気分なんだろ。自分を全部出し切ったあとで、お互いに笑顔でいられるのって、すごいと思う。
スタートがもう少しうまく行っていれば勝てたかもしれないとか、ターンのタイミングが悪かったとか……いろいろと後悔したりしないのかな?
わたしはいつもそう。
今日だって、あと少し……。
……やめやめ。
せっかく先輩がすごい泳ぎを見せてくれたんだから、こんなこと考えるのもったいない。
今はもっとこの感じに浸っていたい。
『続きまして……男子100m自由型、決勝を行います……』
掲示板から先輩の名前が消えた。
いつかはわたしもあそこに名前を載せるんだ。
先輩に言ったら、思い切りからかわれたけど、憧れのままで終わらせたくない。ほんの少しでいいから近づきたい。
だから、いつか必ず、あそこに……。
――『AKANE SUZUMIYA』って、刻むんだ。
*
「あかねっ!」
――っ!!
「な〜に、びっくりしてんのよ」
「せんぱ〜いっ!」
わざわざ来てくれるなんて、うれしいよぉ。
「となり、座るわよ」
「はいっ!」
プールから目を離さずに、肩からバッグを下ろす。
すらりと伸びた細い足が、制服のスカートの裾から覗いていた。
人気あって当たり前かぁ……先輩、綺麗だもんなぁ〜。
はぁ……わたしが超えるべき課題は山のごとしだ……。
白陵柊の制服も似合っているし。
わたしが着たらどうなるんだろ? 今度、お姉ちゃんの借りて着てみようかな? う〜ん、でも似合わなかったら、いやかも。
「どうかした?」
「その制服、かわいいですよね」
「あ、そっか。茜、うち狙ってるんだっけ?」
「はい」
「ふ〜ん、動機は制服かあ〜。水泳部じゃなかったんだ」
「ふふぅ、そうでーす」
「入試面接でそんなこといっちゃだめよ?」
「わかってますよぉ! ……それに、本当の理由じゃないですからっ」
「へぇ〜、じゃあ、どうして?」
そんなの決まってるじゃないですか。
「先輩が通ってるからですっ」
「はあ〜ぁ? なにそれ?」
……わたし、へんなこと言ったかな?
「おかしいですか?」
「う〜ん、おかしいというか……やっぱ、遙の妹だなぁ〜って」
「ひど〜い! それっ、どういう意味ですかっ」
そりゃ、お姉ちゃんはボケボケなとことかあるけど……わたしはダイジョブだもん!
「ひどい……って、あんた。遙が可哀想だなぁ〜。明日、学校で言っちゃお〜」
「あっ!! う、うそです、いまの! だって、先輩が……」
「別に私は『茜が遙の妹だ』って言っただけよぉ」
「あ〜っ、先輩ずっる〜い」
「あははははは」
……でも、残念だな。
わたしが入学する前に、先輩は卒業しちゃう。
いろいろと教えてもらいたいけど無理なんだ……。
こんな風に話すことも、もっとたくさんできたかもしれないのに……。
「……けど、そっか……茜とは一緒に通えないんだよね……」
「……はい」
はぁ……ほんと、残念……。
「わたしのライバルになってくれたりしたら面白かったのに」
「なに言ってるんですかっ、むりですよっ!」
「何がむりよ? あんたねえ、やりもしないうちからそんな……」
「ち・が・い・ま・す。わたしが白陵柊の3年になっている頃には、わたしの方が上かもしれないからですっ!」
「ほほう、そのココロは?」
「なぜならぁ〜、わたしのほうが、、ずぅ〜っと若いからでーす!」
「……茜ちゃん?」
「へへへ、なんですかあ? ……って、わっ、きゃっ……」
先輩の手が制服の中に入ってくる。
「せ、せんぱっ! く、くすぐったあい!!」
「ほほほほほほ」
「きゃははは……やめっ! ……いきっ! いきがっ!」
「な〜に言ってるのよぉ? 茜がはやく私を超えられるように、肺活量の特訓よっ! 特訓!!」
「あははっ、やめっ……やめてぇ……やめてくださ〜い……」
「若さで克服なさいっ」
「あははっ、まいりましたからぁ〜、やめてぇ〜……ごめんなさ〜い。ゆるしてぇ〜」
「……よろしい。今日の特訓終わり!」
「はぁ〜、助かったぁ〜」
泳いでいるときとは別人みたいだけど、こういう先輩も大好き。わたしを妹みたいに思ってくれてるなんて、すんごく贅沢。お姉ちゃんに感謝しないと。先輩とお姉ちゃんが友達じゃなかったら、こんな風にできなかったんだから。
「ふふふ……部活も茜がいれば、もっと楽しかったのにねぇ〜」
「いじめるつもりですねっ」
「どうかしらねぇ〜。あ、でも、まずは茜に合格してもらわないといけないから……そっちが問題かなぁ〜」
「それっ、どういう意味ですかっ?」
「さあ〜」
「言っておきますけど、わたし、お姉ちゃんの妹ですよっ」
水月先輩ならよく知っているはず。
お姉ちゃんの成績表が、体育を除いて上2つの数字で埋っていることくらい。
「なるほど、妙な説得力があるわねぇ。けど、受けるのは遙じゃなくて、茜でしょ〜?」
「ひっど〜い。先輩に馬鹿にされたって、お姉ちゃんに言いつけます」
「コラコラ、遙を困らせるようなこと、しないの」
……たしかに、お姉ちゃんに報復を頼むのは可哀想だ。
きっとおろおろしちゃって何もできないだろうから……。
「先輩はいいですよね! 水泳で通っちゃうんですからっ!!」
「失礼ね……ちゃんと受験したわよ」
「ええぇっ! うっそーっ!!」
「特訓?」
「うわっと…ちょ、ちょっと、うそうそ、ごめんなさい。つい本音が出ただけですよぉ」
「追加メニュー?」
「じょ、じょ〜だんですよっ。大好きですから、ゆるしてくださ〜い」
ふざけて抱きつく。
――あっ
…………すごくやわらかい……。
あんなに、はやいのに……あったかいんだ。
あんなにすごいのに、ふかふかして……。
……やわからい……。
「ほ〜んと、調子いいんだから!」
先輩は呆れ顔でわたしを見た。それから吹き出すように笑い出した。
「へへ、よく言われまーす」
『ただいまより、表彰を行ないます……』
アナウンスが終わるのを待って、先輩は立ち上がった。
「さ〜て、行ってきますか」
「いってらっしゃ〜い」
先輩の表彰を見るのって、これで何度目だろ。
もう数え切れないほど見てきた気がする。
電光掲示板に順位が表示される瞬間の胸の高鳴りはないけど、わたしもあそこに立てるようになりたい。
わたしの欲しいものを、先輩は全部持ってる。
――ううん、違う。そうじゃない。先輩が持ってるから、欲しくなるんだ。
『女子100m自由型、1位、速瀬水月……白陵大附属柊学園……』
――いつか、わたしもあの場所に立つんだ。
水月先輩の上がったあの表彰台に。
そうすれば、何が見えて、何を考えて、何を思ったのか全部わかるはず。
憧れに近づける。
少しずつでいい。
いつか、きっと、たどり着く。
――だから、その日まで、待っててね。
電光掲示板の上にある大きな時計が、2時を指した。
――時間だ。
『これより、女子100m自由型、決勝を行います……』
アナウンスの声にざわめきが掻き消されていく。
――はじまるんだ。
放送のなごりが消えて、次第に客席が騒がしさを取り戻していく。
さっきまでとはまったく違った空気が、会場を満たしていた。
――緊張する。
わたしが泳ぐわけじゃないのに……これからはじまるって思っただけで、こんなに胸が高鳴るなんて……。
あそこに……電光掲示板の1番上に、先輩の名前が表示されるのを、もう待ちきれないでいる。
そのとき、ひときわ大きな歓声が上がった。
予選を勝ち進んだ選手達が一列に並んで、それぞれのコースの前までやってくる。その足取りは堂々としていた。
――水月先輩……。
探すのは簡単だった。
先輩はいつも中央のコースにいるから。
声援が送られる中で、1コース目から選手の紹介がはじまった。
すべての視線が選手達に注がれる瞬間。
――わたしも、あの場所にいきたい。
先輩と同じところに……。
――先輩と同じコースを泳ぎたい。
予選でもはじっこばっかだもんな、わたしなんて……先輩はすごいよ。
『……速瀬水月、白陵大附属柊学園』
それまでと比較にならない声援が送られる。平日だから学園生が応援にきてるわけじゃない。それなのに、ここにいるみんなが先輩を見てる。
知ってるんだ。すごいってことを……。
響き渡る歓声を吸い込むように、先輩はゆっくりと立ち上がった。
水面を見据える真剣な表情。それはわたしのいちばん好きな顔。
――こういう時って何を考えてるんだろ。
決勝まで残ったことないから、わたしには想像もできないけど。
先輩でも緊張とかするのかな?
……しないわけないか。
選手紹介が終わると、スタートの準備に入った。
張り詰めた雰囲気が高まっていく。
飛び込み台の上に先輩が足をかけた。
審判の合図で身をかがめる。
――はじまるっ!
次の瞬間、大きな水しぶきがあがった。けど、その音はここまで届かない。
すべてが声援で埋め尽くされていた。
このレースが会場全体を動かしていた。
頭が真っ白になっていく感じがした。
何度も何度の先輩の名前を叫んだ。その辺にいるひとの迷惑なんて、どうでもよくなってくる。先輩の試合を見るときはいつもそう。夢中になって、自分の周りが見えなくなる。
他の選手、ましてやわたしにはない魅力を、先輩の泳ぎは持っているんだ。何が違うのかはわからない。
わからないからこそ、惹かれてしまう。
――いつか、わたしも先輩みたいになりたい。
泳ぐことで、ひとの心を動かせるように。
ターンを前にして、先輩はトップから体半分ほど遅れていた。
決勝ともなれば、周囲にいる選手だってすっごくはやい。
トップを泳ぐひとなんて、先輩と同じで、強化指定の選考対象になったんだから。
でも、少しも不安じゃない。
だって、先輩はここからだから。
50メートルのターンから上がったところで、ひとりを抜き去った。
すごいっ!
目に見える早さで、トップとの距離が縮まっていく。
またひとりかわした。
――これで、あとひとりっ!
コースロープの色が青から黄色……そして白へ。
――残り5メートルっ!
あと頭ひとつぶん……けど絶対に大丈夫っ!
だって、先輩だもん。
のどがつぶれるくらいに声をあげた。
先輩がトップに並んだ。
……そして、ふたりは同時にゴールした……ように見えた。
会場がどよめきに溢れる。
みんなの視線が電光掲示板に注がれる。
……すんごくどきどきしてきた……。
自分の結果のときより、もっとすごいよ。
――どっちだろ……ううん、そんなの決まってる。
先輩が負けるはずない!
今朝、わたしに約束してくれたんだから。優勝できなかったら、好きなものをおごってくれるって。今までに何度もやったけど、この賭けに勝ったことはいちどもない。
同着に見えた隣のコースの選手がすごいのもわかる。だけど、本当にすごいのは先輩だけなんだから。
絶対に負けちゃいけなんだから。
誰もが電光掲示板に目を奪われてる中で、水月先輩だけは、けだるい感じを楽しむようにコースロープに寄り掛かって浮かんでいた。
――ここの掲示板の反応が遅いのを知ってるんだ。
先輩がキャップを取る。綺麗な長い髪が水面に広がった。
それから、首だけを真横に向けて、電光掲示板を視界にいれた。
先輩が見てくれるのを待っていたみたいに、オレンジ色の光が灯った。
静かになっていた会場に、どっと歓声が湧いた。
1番上には、『MITSUKI HAYASE』の名前があった。
無意識のうちに立ちあがっていた。隣のひとも、その隣のひとも、そうだった。
先輩に目を向けると、こっちを見ていた。
――今日もおごりはなしですね。
口だけ動かして、そう言うと、先輩は笑ってみせた。
もしかして、伝わったのかな?
……って、んなわけないか。
それから、わずかの差で敗れ去った隣のコースのひとに 話しかけられていた。
ふたりとも楽しそうにしてる。
高いレベルで競い合う相手がいて、レースのあとで、あんな風に笑って話せるのって、どんな気分なんだろ。自分を全部出し切ったあとで、お互いに笑顔でいられるのって、すごいと思う。
スタートがもう少しうまく行っていれば勝てたかもしれないとか、ターンのタイミングが悪かったとか……いろいろと後悔したりしないのかな?
わたしはいつもそう。
今日だって、あと少し……。
……やめやめ。
せっかく先輩がすごい泳ぎを見せてくれたんだから、こんなこと考えるのもったいない。
今はもっとこの感じに浸っていたい。
『続きまして……男子100m自由型、決勝を行います……』
掲示板から先輩の名前が消えた。
いつかはわたしもあそこに名前を載せるんだ。
先輩に言ったら、思い切りからかわれたけど、憧れのままで終わらせたくない。ほんの少しでいいから近づきたい。
だから、いつか必ず、あそこに……。
――『AKANE SUZUMIYA』って、刻むんだ。
*
「あかねっ!」
――っ!!
「な〜に、びっくりしてんのよ」
「せんぱ〜いっ!」
わざわざ来てくれるなんて、うれしいよぉ。
「となり、座るわよ」
「はいっ!」
プールから目を離さずに、肩からバッグを下ろす。
すらりと伸びた細い足が、制服のスカートの裾から覗いていた。
人気あって当たり前かぁ……先輩、綺麗だもんなぁ〜。
はぁ……わたしが超えるべき課題は山のごとしだ……。
白陵柊の制服も似合っているし。
わたしが着たらどうなるんだろ? 今度、お姉ちゃんの借りて着てみようかな? う〜ん、でも似合わなかったら、いやかも。
「どうかした?」
「その制服、かわいいですよね」
「あ、そっか。茜、うち狙ってるんだっけ?」
「はい」
「ふ〜ん、動機は制服かあ〜。水泳部じゃなかったんだ」
「ふふぅ、そうでーす」
「入試面接でそんなこといっちゃだめよ?」
「わかってますよぉ! ……それに、本当の理由じゃないですからっ」
「へぇ〜、じゃあ、どうして?」
そんなの決まってるじゃないですか。
「先輩が通ってるからですっ」
「はあ〜ぁ? なにそれ?」
……わたし、へんなこと言ったかな?
「おかしいですか?」
「う〜ん、おかしいというか……やっぱ、遙の妹だなぁ〜って」
「ひど〜い! それっ、どういう意味ですかっ」
そりゃ、お姉ちゃんはボケボケなとことかあるけど……わたしはダイジョブだもん!
「ひどい……って、あんた。遙が可哀想だなぁ〜。明日、学校で言っちゃお〜」
「あっ!! う、うそです、いまの! だって、先輩が……」
「別に私は『茜が遙の妹だ』って言っただけよぉ」
「あ〜っ、先輩ずっる〜い」
「あははははは」
……でも、残念だな。
わたしが入学する前に、先輩は卒業しちゃう。
いろいろと教えてもらいたいけど無理なんだ……。
こんな風に話すことも、もっとたくさんできたかもしれないのに……。
「……けど、そっか……茜とは一緒に通えないんだよね……」
「……はい」
はぁ……ほんと、残念……。
「わたしのライバルになってくれたりしたら面白かったのに」
「なに言ってるんですかっ、むりですよっ!」
「何がむりよ? あんたねえ、やりもしないうちからそんな……」
「ち・が・い・ま・す。わたしが白陵柊の3年になっている頃には、わたしの方が上かもしれないからですっ!」
「ほほう、そのココロは?」
「なぜならぁ〜、わたしのほうが、、ずぅ〜っと若いからでーす!」
「……茜ちゃん?」
「へへへ、なんですかあ? ……って、わっ、きゃっ……」
先輩の手が制服の中に入ってくる。
「せ、せんぱっ! く、くすぐったあい!!」
「ほほほほほほ」
「きゃははは……やめっ! ……いきっ! いきがっ!」
「な〜に言ってるのよぉ? 茜がはやく私を超えられるように、肺活量の特訓よっ! 特訓!!」
「あははっ、やめっ……やめてぇ……やめてくださ〜い……」
「若さで克服なさいっ」
「あははっ、まいりましたからぁ〜、やめてぇ〜……ごめんなさ〜い。ゆるしてぇ〜」
「……よろしい。今日の特訓終わり!」
「はぁ〜、助かったぁ〜」
泳いでいるときとは別人みたいだけど、こういう先輩も大好き。わたしを妹みたいに思ってくれてるなんて、すんごく贅沢。お姉ちゃんに感謝しないと。先輩とお姉ちゃんが友達じゃなかったら、こんな風にできなかったんだから。
「ふふふ……部活も茜がいれば、もっと楽しかったのにねぇ〜」
「いじめるつもりですねっ」
「どうかしらねぇ〜。あ、でも、まずは茜に合格してもらわないといけないから……そっちが問題かなぁ〜」
「それっ、どういう意味ですかっ?」
「さあ〜」
「言っておきますけど、わたし、お姉ちゃんの妹ですよっ」
水月先輩ならよく知っているはず。
お姉ちゃんの成績表が、体育を除いて上2つの数字で埋っていることくらい。
「なるほど、妙な説得力があるわねぇ。けど、受けるのは遙じゃなくて、茜でしょ〜?」
「ひっど〜い。先輩に馬鹿にされたって、お姉ちゃんに言いつけます」
「コラコラ、遙を困らせるようなこと、しないの」
……たしかに、お姉ちゃんに報復を頼むのは可哀想だ。
きっとおろおろしちゃって何もできないだろうから……。
「先輩はいいですよね! 水泳で通っちゃうんですからっ!!」
「失礼ね……ちゃんと受験したわよ」
「ええぇっ! うっそーっ!!」
「特訓?」
「うわっと…ちょ、ちょっと、うそうそ、ごめんなさい。つい本音が出ただけですよぉ」
「追加メニュー?」
「じょ、じょ〜だんですよっ。大好きですから、ゆるしてくださ〜い」
ふざけて抱きつく。
――あっ
…………すごくやわらかい……。
あんなに、はやいのに……あったかいんだ。
あんなにすごいのに、ふかふかして……。
……やわからい……。
「ほ〜んと、調子いいんだから!」
先輩は呆れ顔でわたしを見た。それから吹き出すように笑い出した。
「へへ、よく言われまーす」
『ただいまより、表彰を行ないます……』
アナウンスが終わるのを待って、先輩は立ち上がった。
「さ〜て、行ってきますか」
「いってらっしゃ〜い」
先輩の表彰を見るのって、これで何度目だろ。
もう数え切れないほど見てきた気がする。
電光掲示板に順位が表示される瞬間の胸の高鳴りはないけど、わたしもあそこに立てるようになりたい。
わたしの欲しいものを、先輩は全部持ってる。
――ううん、違う。そうじゃない。先輩が持ってるから、欲しくなるんだ。
『女子100m自由型、1位、速瀬水月……白陵大附属柊学園……』
――いつか、わたしもあの場所に立つんだ。
水月先輩の上がったあの表彰台に。
そうすれば、何が見えて、何を考えて、何を思ったのか全部わかるはず。
憧れに近づける。
少しずつでいい。
いつか、きっと、たどり着く。
――だから、その日まで、待っててね。