電光掲示板の上にある大きな時計が、2時を指した。
 ――時間だ。

『これより、女子100m自由型、決勝を行います……』

 アナウンスの声にざわめきが掻き消されていく。
 ――はじまるんだ。
 放送のなごりが消えて、次第に客席が騒がしさを取り戻していく。
 さっきまでとはまったく違った空気が、会場を満たしていた。
 ――緊張する。
 わたしが泳ぐわけじゃないのに……これからはじまるって思っただけで、こんなに胸が高鳴るなんて……。
 あそこに……電光掲示板の1番上に、先輩の名前が表示されるのを、もう待ちきれないでいる。
 そのとき、ひときわ大きな歓声が上がった。
 予選を勝ち進んだ選手達が一列に並んで、それぞれのコースの前までやってくる。その足取りは堂々としていた。
 ――水月先輩……。
 探すのは簡単だった。
 先輩はいつも中央のコースにいるから。
 声援が送られる中で、1コース目から選手の紹介がはじまった。
 すべての視線が選手達に注がれる瞬間。
 ――わたしも、あの場所にいきたい。
 先輩と同じところに……。
 ――先輩と同じコースを泳ぎたい。
 予選でもはじっこばっかだもんな、わたしなんて……先輩はすごいよ。

『……速瀬水月、白陵大附属柊学園』

 それまでと比較にならない声援が送られる。平日だから学園生が応援にきてるわけじゃない。それなのに、ここにいるみんなが先輩を見てる。
 知ってるんだ。すごいってことを……。
 響き渡る歓声を吸い込むように、先輩はゆっくりと立ち上がった。
 水面を見据える真剣な表情。それはわたしのいちばん好きな顔。
 ――こういう時って何を考えてるんだろ。
 決勝まで残ったことないから、わたしには想像もできないけど。
 先輩でも緊張とかするのかな?
 ……しないわけないか。
 選手紹介が終わると、スタートの準備に入った。
 張り詰めた雰囲気が高まっていく。
 飛び込み台の上に先輩が足をかけた。
 審判の合図で身をかがめる。
 ――はじまるっ!
 次の瞬間、大きな水しぶきがあがった。けど、その音はここまで届かない。
 すべてが声援で埋め尽くされていた。
 このレースが会場全体を動かしていた。
 頭が真っ白になっていく感じがした。
 何度も何度の先輩の名前を叫んだ。その辺にいるひとの迷惑なんて、どうでもよくなってくる。先輩の試合を見るときはいつもそう。夢中になって、自分の周りが見えなくなる。
 他の選手、ましてやわたしにはない魅力を、先輩の泳ぎは持っているんだ。何が違うのかはわからない。
 わからないからこそ、惹かれてしまう。
 ――いつか、わたしも先輩みたいになりたい。
 泳ぐことで、ひとの心を動かせるように。
 ターンを前にして、先輩はトップから体半分ほど遅れていた。
 決勝ともなれば、周囲にいる選手だってすっごくはやい。
 トップを泳ぐひとなんて、先輩と同じで、強化指定の選考対象になったんだから。
 でも、少しも不安じゃない。
 だって、先輩はここからだから。
 50メートルのターンから上がったところで、ひとりを抜き去った。
 すごいっ!
 目に見える早さで、トップとの距離が縮まっていく。
 またひとりかわした。
 ――これで、あとひとりっ!
 コースロープの色が青から黄色……そして白へ。
 ――残り5メートルっ!
 あと頭ひとつぶん……けど絶対に大丈夫っ!
 だって、先輩だもん。
 のどがつぶれるくらいに声をあげた。
 先輩がトップに並んだ。
 ……そして、ふたりは同時にゴールした……ように見えた。
 会場がどよめきに溢れる。
 みんなの視線が電光掲示板に注がれる。
 ……すんごくどきどきしてきた……。
 自分の結果のときより、もっとすごいよ。
 ――どっちだろ……ううん、そんなの決まってる。
 先輩が負けるはずない!
 今朝、わたしに約束してくれたんだから。優勝できなかったら、好きなものをおごってくれるって。今までに何度もやったけど、この賭けに勝ったことはいちどもない。
 同着に見えた隣のコースの選手がすごいのもわかる。だけど、本当にすごいのは先輩だけなんだから。
 絶対に負けちゃいけなんだから。
 誰もが電光掲示板に目を奪われてる中で、水月先輩だけは、けだるい感じを楽しむようにコースロープに寄り掛かって浮かんでいた。
 ――ここの掲示板の反応が遅いのを知ってるんだ。
 先輩がキャップを取る。綺麗な長い髪が水面に広がった。
 それから、首だけを真横に向けて、電光掲示板を視界にいれた。
 先輩が見てくれるのを待っていたみたいに、オレンジ色の光が灯った。
 静かになっていた会場に、どっと歓声が湧いた。
 1番上には、『MITSUKI HAYASE』の名前があった。
 無意識のうちに立ちあがっていた。隣のひとも、その隣のひとも、そうだった。
 先輩に目を向けると、こっちを見ていた。
 ――今日もおごりはなしですね。
 口だけ動かして、そう言うと、先輩は笑ってみせた。
 もしかして、伝わったのかな?
 ……って、んなわけないか。
 それから、わずかの差で敗れ去った隣のコースのひとに 話しかけられていた。
 ふたりとも楽しそうにしてる。
 高いレベルで競い合う相手がいて、レースのあとで、あんな風に笑って話せるのって、どんな気分なんだろ。自分を全部出し切ったあとで、お互いに笑顔でいられるのって、すごいと思う。
 スタートがもう少しうまく行っていれば勝てたかもしれないとか、ターンのタイミングが悪かったとか……いろいろと後悔したりしないのかな?
 わたしはいつもそう。
 今日だって、あと少し……。
 ……やめやめ。
 せっかく先輩がすごい泳ぎを見せてくれたんだから、こんなこと考えるのもったいない。
 今はもっとこの感じに浸っていたい。

『続きまして……男子100m自由型、決勝を行います……』

 掲示板から先輩の名前が消えた。
 いつかはわたしもあそこに名前を載せるんだ。
 先輩に言ったら、思い切りからかわれたけど、憧れのままで終わらせたくない。ほんの少しでいいから近づきたい。
 だから、いつか必ず、あそこに……。
 ――『AKANE SUZUMIYA』って、刻むんだ。





「あかねっ!」
 ――っ!!
「な〜に、びっくりしてんのよ」
「せんぱ〜いっ!」
 わざわざ来てくれるなんて、うれしいよぉ。
「となり、座るわよ」
「はいっ!」
 プールから目を離さずに、肩からバッグを下ろす。
 すらりと伸びた細い足が、制服のスカートの裾から覗いていた。
 人気あって当たり前かぁ……先輩、綺麗だもんなぁ〜。
 はぁ……わたしが超えるべき課題は山のごとしだ……。
 白陵柊の制服も似合っているし。
 わたしが着たらどうなるんだろ? 今度、お姉ちゃんの借りて着てみようかな? う〜ん、でも似合わなかったら、いやかも。
「どうかした?」
「その制服、かわいいですよね」
「あ、そっか。茜、うち狙ってるんだっけ?」
「はい」
「ふ〜ん、動機は制服かあ〜。水泳部じゃなかったんだ」
「ふふぅ、そうでーす」
「入試面接でそんなこといっちゃだめよ?」
「わかってますよぉ! ……それに、本当の理由じゃないですからっ」
「へぇ〜、じゃあ、どうして?」
 そんなの決まってるじゃないですか。
「先輩が通ってるからですっ」
「はあ〜ぁ? なにそれ?」
 ……わたし、へんなこと言ったかな?
「おかしいですか?」
「う〜ん、おかしいというか……やっぱ、遙の妹だなぁ〜って」
「ひど〜い! それっ、どういう意味ですかっ」
 そりゃ、お姉ちゃんはボケボケなとことかあるけど……わたしはダイジョブだもん!
「ひどい……って、あんた。遙が可哀想だなぁ〜。明日、学校で言っちゃお〜」
「あっ!! う、うそです、いまの! だって、先輩が……」
「別に私は『茜が遙の妹だ』って言っただけよぉ」
「あ〜っ、先輩ずっる〜い」
「あははははは」
 ……でも、残念だな。
 わたしが入学する前に、先輩は卒業しちゃう。
 いろいろと教えてもらいたいけど無理なんだ……。
 こんな風に話すことも、もっとたくさんできたかもしれないのに……。
「……けど、そっか……茜とは一緒に通えないんだよね……」
「……はい」
 はぁ……ほんと、残念……。
「わたしのライバルになってくれたりしたら面白かったのに」
「なに言ってるんですかっ、むりですよっ!」
「何がむりよ? あんたねえ、やりもしないうちからそんな……」
「ち・が・い・ま・す。わたしが白陵柊の3年になっている頃には、わたしの方が上かもしれないからですっ!」
「ほほう、そのココロは?」
「なぜならぁ〜、わたしのほうが、、ずぅ〜っと若いからでーす!」
「……茜ちゃん?」
「へへへ、なんですかあ? ……って、わっ、きゃっ……」
 先輩の手が制服の中に入ってくる。
「せ、せんぱっ! く、くすぐったあい!!」
「ほほほほほほ」
「きゃははは……やめっ! ……いきっ! いきがっ!」
「な〜に言ってるのよぉ? 茜がはやく私を超えられるように、肺活量の特訓よっ! 特訓!!」
「あははっ、やめっ……やめてぇ……やめてくださ〜い……」
「若さで克服なさいっ」
「あははっ、まいりましたからぁ〜、やめてぇ〜……ごめんなさ〜い。ゆるしてぇ〜」
「……よろしい。今日の特訓終わり!」
「はぁ〜、助かったぁ〜」
 泳いでいるときとは別人みたいだけど、こういう先輩も大好き。わたしを妹みたいに思ってくれてるなんて、すんごく贅沢。お姉ちゃんに感謝しないと。先輩とお姉ちゃんが友達じゃなかったら、こんな風にできなかったんだから。
「ふふふ……部活も茜がいれば、もっと楽しかったのにねぇ〜」
「いじめるつもりですねっ」
「どうかしらねぇ〜。あ、でも、まずは茜に合格してもらわないといけないから……そっちが問題かなぁ〜」
「それっ、どういう意味ですかっ?」
「さあ〜」
「言っておきますけど、わたし、お姉ちゃんの妹ですよっ」
 水月先輩ならよく知っているはず。
 お姉ちゃんの成績表が、体育を除いて上2つの数字で埋っていることくらい。
「なるほど、妙な説得力があるわねぇ。けど、受けるのは遙じゃなくて、茜でしょ〜?」
「ひっど〜い。先輩に馬鹿にされたって、お姉ちゃんに言いつけます」
「コラコラ、遙を困らせるようなこと、しないの」
 ……たしかに、お姉ちゃんに報復を頼むのは可哀想だ。
 きっとおろおろしちゃって何もできないだろうから……。
「先輩はいいですよね! 水泳で通っちゃうんですからっ!!」
「失礼ね……ちゃんと受験したわよ」
「ええぇっ! うっそーっ!!」
「特訓?」
「うわっと…ちょ、ちょっと、うそうそ、ごめんなさい。つい本音が出ただけですよぉ」
「追加メニュー?」
「じょ、じょ〜だんですよっ。大好きですから、ゆるしてくださ〜い」
 ふざけて抱きつく。
 ――あっ
…………すごくやわらかい……。
 あんなに、はやいのに……あったかいんだ。
 あんなにすごいのに、ふかふかして……。
 ……やわからい……。
「ほ〜んと、調子いいんだから!」
 先輩は呆れ顔でわたしを見た。それから吹き出すように笑い出した。
「へへ、よく言われまーす」

『ただいまより、表彰を行ないます……』

 アナウンスが終わるのを待って、先輩は立ち上がった。
「さ〜て、行ってきますか」
「いってらっしゃ〜い」
 先輩の表彰を見るのって、これで何度目だろ。
 もう数え切れないほど見てきた気がする。
 電光掲示板に順位が表示される瞬間の胸の高鳴りはないけど、わたしもあそこに立てるようになりたい。
 わたしの欲しいものを、先輩は全部持ってる。
 ――ううん、違う。そうじゃない。先輩が持ってるから、欲しくなるんだ。

『女子100m自由型、1位、速瀬水月……白陵大附属柊学園……』

 ――いつか、わたしもあの場所に立つんだ。
 水月先輩の上がったあの表彰台に。
 そうすれば、何が見えて、何を考えて、何を思ったのか全部わかるはず。
 憧れに近づける。
 少しずつでいい。
 いつか、きっと、たどり着く。
 ――だから、その日まで、待っててね。



 電光掲示板の上にある大きな時計が、2時を指した。
 ――時間だ。

『これより、女子100m自由型、決勝を行います……』

 アナウンスの声にざわめきが掻き消されていく。
 ――はじまるんだ。
 放送のなごりが消えて、次第に客席が騒がしさを取り戻していく。
 さっきまでとはまったく違った空気が、会場を満たしていた。
 ――緊張する。
 わたしが泳ぐわけじゃないのに……これからはじまるって思っただけで、こんなに胸が高鳴るなんて……。
 あそこに……電光掲示板の1番上に、先輩の名前が表示されるのを、もう待ちきれないでいる。
 そのとき、ひときわ大きな歓声が上がった。
 予選を勝ち進んだ選手達が一列に並んで、それぞれのコースの前までやってくる。その足取りは堂々としていた。
 ――水月先輩……。
 探すのは簡単だった。
 先輩はいつも中央のコースにいるから。
 声援が送られる中で、1コース目から選手の紹介がはじまった。
 すべての視線が選手達に注がれる瞬間。
 ――わたしも、あの場所にいきたい。
 先輩と同じところに……。
 ――先輩と同じコースを泳ぎたい。
 予選でもはじっこばっかだもんな、わたしなんて……先輩はすごいよ。

『……速瀬水月、白陵大附属柊学園』

 それまでと比較にならない声援が送られる。平日だから学園生が応援にきてるわけじゃない。それなのに、ここにいるみんなが先輩を見てる。
 知ってるんだ。すごいってことを……。
 響き渡る歓声を吸い込むように、先輩はゆっくりと立ち上がった。
 水面を見据える真剣な表情。それはわたしのいちばん好きな顔。
 ――こういう時って何を考えてるんだろ。
 決勝まで残ったことないから、わたしには想像もできないけど。
 先輩でも緊張とかするのかな?
 ……しないわけないか。
 選手紹介が終わると、スタートの準備に入った。
 張り詰めた雰囲気が高まっていく。
 飛び込み台の上に先輩が足をかけた。
 審判の合図で身をかがめる。
 ――はじまるっ!
 次の瞬間、大きな水しぶきがあがった。けど、その音はここまで届かない。
 すべてが声援で埋め尽くされていた。
 このレースが会場全体を動かしていた。
 頭が真っ白になっていく感じがした。
 何度も何度の先輩の名前を叫んだ。その辺にいるひとの迷惑なんて、どうでもよくなってくる。先輩の試合を見るときはいつもそう。夢中になって、自分の周りが見えなくなる。
 他の選手、ましてやわたしにはない魅力を、先輩の泳ぎは持っているんだ。何が違うのかはわからない。
 わからないからこそ、惹かれてしまう。
 ――いつか、わたしも先輩みたいになりたい。
 泳ぐことで、ひとの心を動かせるように。
 ターンを前にして、先輩はトップから体半分ほど遅れていた。
 決勝ともなれば、周囲にいる選手だってすっごくはやい。
 トップを泳ぐひとなんて、先輩と同じで、強化指定の選考対象になったんだから。
 でも、少しも不安じゃない。
 だって、先輩はここからだから。
 50メートルのターンから上がったところで、ひとりを抜き去った。
 すごいっ!
 目に見える早さで、トップとの距離が縮まっていく。
 またひとりかわした。
 ――これで、あとひとりっ!
 コースロープの色が青から黄色……そして白へ。
 ――残り5メートルっ!
 あと頭ひとつぶん……けど絶対に大丈夫っ!
 だって、先輩だもん。
 のどがつぶれるくらいに声をあげた。
 先輩がトップに並んだ。
 ……そして、ふたりは同時にゴールした……ように見えた。
 会場がどよめきに溢れる。
 みんなの視線が電光掲示板に注がれる。
 ……すんごくどきどきしてきた……。
 自分の結果のときより、もっとすごいよ。
 ――どっちだろ……ううん、そんなの決まってる。
 先輩が負けるはずない!
 今朝、わたしに約束してくれたんだから。優勝できなかったら、好きなものをおごってくれるって。今までに何度もやったけど、この賭けに勝ったことはいちどもない。
 同着に見えた隣のコースの選手がすごいのもわかる。だけど、本当にすごいのは先輩だけなんだから。
 絶対に負けちゃいけなんだから。
 誰もが電光掲示板に目を奪われてる中で、水月先輩だけは、けだるい感じを楽しむようにコースロープに寄り掛かって浮かんでいた。
 ――ここの掲示板の反応が遅いのを知ってるんだ。
 先輩がキャップを取る。綺麗な長い髪が水面に広がった。
 それから、首だけを真横に向けて、電光掲示板を視界にいれた。
 先輩が見てくれるのを待っていたみたいに、オレンジ色の光が灯った。
 静かになっていた会場に、どっと歓声が湧いた。
 1番上には、『MITSUKI HAYASE』の名前があった。
 無意識のうちに立ちあがっていた。隣のひとも、その隣のひとも、そうだった。
 先輩に目を向けると、こっちを見ていた。
 ――今日もおごりはなしですね。
 口だけ動かして、そう言うと、先輩は笑ってみせた。
 もしかして、伝わったのかな?
 ……って、んなわけないか。
 それから、わずかの差で敗れ去った隣のコースのひとに 話しかけられていた。
 ふたりとも楽しそうにしてる。
 高いレベルで競い合う相手がいて、レースのあとで、あんな風に笑って話せるのって、どんな気分なんだろ。自分を全部出し切ったあとで、お互いに笑顔でいられるのって、すごいと思う。
 スタートがもう少しうまく行っていれば勝てたかもしれないとか、ターンのタイミングが悪かったとか……いろいろと後悔したりしないのかな?
 わたしはいつもそう。
 今日だって、あと少し……。
 ……やめやめ。
 せっかく先輩がすごい泳ぎを見せてくれたんだから、こんなこと考えるのもったいない。
 今はもっとこの感じに浸っていたい。

『続きまして……男子100m自由型、決勝を行います……』

 掲示板から先輩の名前が消えた。
 いつかはわたしもあそこに名前を載せるんだ。
 先輩に言ったら、思い切りからかわれたけど、憧れのままで終わらせたくない。ほんの少しでいいから近づきたい。
 だから、いつか必ず、あそこに……。
 ――『AKANE SUZUMIYA』って、刻むんだ。





「あかねっ!」
 ――っ!!
「な〜に、びっくりしてんのよ」
「せんぱ〜いっ!」
 わざわざ来てくれるなんて、うれしいよぉ。
「となり、座るわよ」
「はいっ!」
 プールから目を離さずに、肩からバッグを下ろす。
 すらりと伸びた細い足が、制服のスカートの裾から覗いていた。
 人気あって当たり前かぁ……先輩、綺麗だもんなぁ〜。
 はぁ……わたしが超えるべき課題は山のごとしだ……。
 白陵柊の制服も似合っているし。
 わたしが着たらどうなるんだろ? 今度、お姉ちゃんの借りて着てみようかな? う〜ん、でも似合わなかったら、いやかも。
「どうかした?」
「その制服、かわいいですよね」
「あ、そっか。茜、うち狙ってるんだっけ?」
「はい」
「ふ〜ん、動機は制服かあ〜。水泳部じゃなかったんだ」
「ふふぅ、そうでーす」
「入試面接でそんなこといっちゃだめよ?」
「わかってますよぉ! ……それに、本当の理由じゃないですからっ」
「へぇ〜、じゃあ、どうして?」
 そんなの決まってるじゃないですか。
「先輩が通ってるからですっ」
「はあ〜ぁ? なにそれ?」
 ……わたし、へんなこと言ったかな?
「おかしいですか?」
「う〜ん、おかしいというか……やっぱ、遙の妹だなぁ〜って」
「ひど〜い! それっ、どういう意味ですかっ」
 そりゃ、お姉ちゃんはボケボケなとことかあるけど……わたしはダイジョブだもん!
「ひどい……って、あんた。遙が可哀想だなぁ〜。明日、学校で言っちゃお〜」
「あっ!! う、うそです、いまの! だって、先輩が……」
「別に私は『茜が遙の妹だ』って言っただけよぉ」
「あ〜っ、先輩ずっる〜い」
「あははははは」
 ……でも、残念だな。
 わたしが入学する前に、先輩は卒業しちゃう。
 いろいろと教えてもらいたいけど無理なんだ……。
 こんな風に話すことも、もっとたくさんできたかもしれないのに……。
「……けど、そっか……茜とは一緒に通えないんだよね……」
「……はい」
 はぁ……ほんと、残念……。
「わたしのライバルになってくれたりしたら面白かったのに」
「なに言ってるんですかっ、むりですよっ!」
「何がむりよ? あんたねえ、やりもしないうちからそんな……」
「ち・が・い・ま・す。わたしが白陵柊の3年になっている頃には、わたしの方が上かもしれないからですっ!」
「ほほう、そのココロは?」
「なぜならぁ〜、わたしのほうが、、ずぅ〜っと若いからでーす!」
「……茜ちゃん?」
「へへへ、なんですかあ? ……って、わっ、きゃっ……」
 先輩の手が制服の中に入ってくる。
「せ、せんぱっ! く、くすぐったあい!!」
「ほほほほほほ」
「きゃははは……やめっ! ……いきっ! いきがっ!」
「な〜に言ってるのよぉ? 茜がはやく私を超えられるように、肺活量の特訓よっ! 特訓!!」
「あははっ、やめっ……やめてぇ……やめてくださ〜い……」
「若さで克服なさいっ」
「あははっ、まいりましたからぁ〜、やめてぇ〜……ごめんなさ〜い。ゆるしてぇ〜」
「……よろしい。今日の特訓終わり!」
「はぁ〜、助かったぁ〜」
 泳いでいるときとは別人みたいだけど、こういう先輩も大好き。わたしを妹みたいに思ってくれてるなんて、すんごく贅沢。お姉ちゃんに感謝しないと。先輩とお姉ちゃんが友達じゃなかったら、こんな風にできなかったんだから。
「ふふふ……部活も茜がいれば、もっと楽しかったのにねぇ〜」
「いじめるつもりですねっ」
「どうかしらねぇ〜。あ、でも、まずは茜に合格してもらわないといけないから……そっちが問題かなぁ〜」
「それっ、どういう意味ですかっ?」
「さあ〜」
「言っておきますけど、わたし、お姉ちゃんの妹ですよっ」
 水月先輩ならよく知っているはず。
 お姉ちゃんの成績表が、体育を除いて上2つの数字で埋っていることくらい。
「なるほど、妙な説得力があるわねぇ。けど、受けるのは遙じゃなくて、茜でしょ〜?」
「ひっど〜い。先輩に馬鹿にされたって、お姉ちゃんに言いつけます」
「コラコラ、遙を困らせるようなこと、しないの」
 ……たしかに、お姉ちゃんに報復を頼むのは可哀想だ。
 きっとおろおろしちゃって何もできないだろうから……。
「先輩はいいですよね! 水泳で通っちゃうんですからっ!!」
「失礼ね……ちゃんと受験したわよ」
「ええぇっ! うっそーっ!!」
「特訓?」
「うわっと…ちょ、ちょっと、うそうそ、ごめんなさい。つい本音が出ただけですよぉ」
「追加メニュー?」
「じょ、じょ〜だんですよっ。大好きですから、ゆるしてくださ〜い」
 ふざけて抱きつく。
 ――あっ
…………すごくやわらかい……。
 あんなに、はやいのに……あったかいんだ。
 あんなにすごいのに、ふかふかして……。
 ……やわからい……。
「ほ〜んと、調子いいんだから!」
 先輩は呆れ顔でわたしを見た。それから吹き出すように笑い出した。
「へへ、よく言われまーす」

『ただいまより、表彰を行ないます……』

 アナウンスが終わるのを待って、先輩は立ち上がった。
「さ〜て、行ってきますか」
「いってらっしゃ〜い」
 先輩の表彰を見るのって、これで何度目だろ。
 もう数え切れないほど見てきた気がする。
 電光掲示板に順位が表示される瞬間の胸の高鳴りはないけど、わたしもあそこに立てるようになりたい。
 わたしの欲しいものを、先輩は全部持ってる。
 ――ううん、違う。そうじゃない。先輩が持ってるから、欲しくなるんだ。

『女子100m自由型、1位、速瀬水月……白陵大附属柊学園……』

 ――いつか、わたしもあの場所に立つんだ。
 水月先輩の上がったあの表彰台に。
 そうすれば、何が見えて、何を考えて、何を思ったのか全部わかるはず。
 憧れに近づける。
 少しずつでいい。
 いつか、きっと、たどり着く。
 ――だから、その日まで、待っててね。



[戻る]


[君が望む永遠 ホーム]
Copyright © 2000 age All rights reserved.