これは捨ててしまっていいよね……。持って行っても仕方ないから。
教科書……どうしよう。もう柊学園のは使わないと思うけど。これなんか、まだ1度も開いてないのに。少し勿体ない。
でも、もう必要ないから、こうするしかない。
本当は使うはずだったのにね。始めからこうなるのわかっていたら、わざわざ買わなかったのに。
……あとは何を片付ければ…………。
――制服。
これを着て、あの桜並木を通うことも、もうないんだ。
3年間続くんだって思っていたのに。まだ、1年も経ってないのに。もう行くことないんだ。
制服もいらなくなってしまった。
持って行っても使わないんだから……邪魔になるだけなら、おいていくしかない。
まだこんなに綺麗なのに。
「ごめんね」
連れていってあげたいけど、荷物、あんまり増やせないから。
いっしょには行けないんだ。
他に、持って行くものは……。
振り向いて部屋の中を見渡す。
……この部屋、こんなに広かったんだ。
あったものを少しだけ外に出しただけなのに。今までは、広いなんて思ったことなかった。
でも、どうしてだろう。もう私の部屋ではないみたいな気がする。
私の知っているのは、机だけで……まるで空気が違っている。
誰もいない感じがして、すこしさびしい。私はまだここにいるのに、どうしてこんな風に思うんだろう。
やっぱ、今日で最後だからかな……。
――机……片付けないと。
これが終われば、この部屋とも本当にお別れになってしまう。でも、もう決まってしまったことだから。ここで生活し続けるわけにいかないから。
――片付けないと。
机に載った小物をひとつずつ取り分けていく。どれも捨てられずに、なんとなく残してあるような物ばかりだけど。切っ掛けがなくて、捨てる決心がつかなかった。
だけど、今日はもうそういうわけにもいかない。
……これなんて、小学生の頃からある。小さなパンダの置物。どこかさびしげで、じーっとこっちを見ている。
私を責めているの……?
もし、そうでも、全部を持って行くことはできないから……。
どれかひとつだけを選ぶのは公平ではないから……ここにあるものは何も持っていかない。
ほこりをかぶった小さな花瓶。まだ水をさしたことも、花をいけたこともないのに。
これも……いつからあるのか、覚えてない。
あとは……。
――そうか、これがあったんだ。
コルクで作られた小さな写真立て……。中学生のとき、修学旅行のお土産で買ったもの。
笑った横顔……学園祭のときの写真……。
本当はこっちを見て笑って欲しかったけど……写真お願いする理由、思い付かなかったから……。
――鳴海先輩。
*
「失礼します」
――ガラガラ。
……あれ? 先生いないのかな?
いつもなら、お弁当でさえ保健室で食べるひとなのに。めずらしい。
お昼休みだというのに……ここはいつも静か。
グランドからも離れているせいもあるのだろうけど、それにしても……。
足音だけがやけにはっきりと聞こえて、歩くだけですこし緊張する。
保健室の利用ノートをひらいてみる。午前中に1年生がふたり使っただけで、他には何もなかったみたい。
どうしようかな。
先生がいないとなると、お手伝いすることもわからない。ここにいてもあまり意味はないかもしれない。
――でも、何もしないで戻るのも……。
お掃除くらいしていこうかな?
それならやっても迷惑にならないだろうから。
……うん、そうしよう。
掃除の当番がしっかりとやってくれないって、前に愚痴を言っていたから。きっと、喜んでくれる。
用具箱からほうきとちりとりを出して、部屋の隅から掃きはじめる。
埃がたたないようにしないと。
ベッドを仕切ったカーテンをあける。
――っ!
う、嘘っ、誰もいないと思っていたのに。
すやすやと寝息を立てて、寝ている男子がいた。
寝返りをうって、顔がこちらを向く。
――っ!!
せ、先輩っ!?
「………………」
……ノートには3年生が利用しているなんて書いてなかった。
それでも目の前にいるのは、間違いなく先輩だ……。
下がった前髪が目元まで隠して、表情をしっかりと見えることはできないけど……
ここまで近付いて顔を見られるなんて……。
……よかった。
ちゃんと保険委員の仕事に出てきて……。
「………………」
……それにしてもよく眠ってる。
大きな音は立ててないけど、すこしうるさくしてしまったのに……。
……これが先輩の寝顔なんだ。
普段とは違って、どこかあどけない感じがする。
とくん……とくん……とくん……
もっとよく見たい……
先輩の顔……忘れないように……もっと……
とくん……とくん……とくん……
胸がどきどきしてる……。
そっと……目元を隠した前髪を横に流す。
やわらかい髪……これが先輩の髪……。
顔を近づけて覗き込む。
とくん……とくん……とくん……
――ぐっすり眠っているから……起きないよね。
とくん……とくん……とくん……
あたたかい息が頬をくすぐって、急にはずかしくなった。
とくん……とくん……とくん……とくん……とくん……とくん……
――わ、私……なにをしているの……。
でも、起きないなら…………。
……しても、平気かもしれない。
すこしだけひらいた先輩の唇を、いつのまにかみつめていた。
――やだ……本当に何を考えているの……私……先輩になんて……。
けど……こんなに近くにいられること、初めてだから……こんなに近くで見ていられるの、今日が最後だから……。
…………。
顔をゆっくりと近付けて……。
「ん、ん〜ん」
――っ!!
急いでカーテンの向こう側に体を隠す。
とくん……とくん……とくん……とくん……とくん……とくん……
カーテンの端からそっと覗くと、先輩は体を起こしてあくびをしているところだった。
こっちを向こうとしたので、慌てて頭を引っ込める。
「ふぁ〜あ……いま、何時だ? せんせぇ〜?!」
「あ、あの……いらっしゃらないみたいですけど……」
「あ、そうなんだ」
とくん……とくん……とくん……
カーテンの奥からの声を聞くだけで、鼓動が早くなっていく。
――私、先輩と話をしている……。
「保険委員のひと?」
「え、ええ、そうです」
「悪いんだけど、何時か教えてくれるか?」
「もう1時を回って……あと5分でお昼休みも終わります」
私もそろそろ戻らないと。次の時間に遅れてしまう。
「そっか……もう、そんな時間か」
「はい」
「でも、なんか、まだだりぃから……もうちょい寝る」
「あ、あの、それでしたら、名前……教えていただいてよろしいでしょうか?」
「ん?」
「利用者ノートに書いておかないと」
「ああ、そうだった。すっかり忘れてた。鳴海孝之って、書いといて」
――なるみ……たかゆきさんか……。
先輩は一文字づつ、漢字を説明している。
鳴……海……孝……之……
先輩の名前……初めて知った。これからは鳴海先輩って呼べる。
「んじゃ、おやすみっと」
「はい、おやすみなさい」
カーテンの向こうからもぞもぞと音が聞こえてきた。
――鳴海先輩……。
*
……忘れたほうがいい。
ただの片思いなんだから。
それだけで済む。
簡単なことのはず……。
もう、声を聞くことも、姿を見ることもない。覚えていても、何もできない。たぶん、つらい想いをするだけ。
明日になれば、もうここではない、ちがう部屋で荷物を整理している。
思い出で終わるんだ。それでいい。
――写真、持っていかないほうがいい。
あるとまた飾ってしまうと思う。
きっと、今しかできない。持っていったら、捨てることできなくなりそうだから。ここで忘れておかないと。また、捨てる切っ掛けがなくなって、いつまでも引きずってしまう。
窓からさし込む夕陽が部屋に長い影を作る。
そろそろ行かないと……。
写真立てを倒してからゆっくりと立ちあがる。部屋を見渡すと、本当に別の部屋にいるみたいだった。
机だけが取り残されたようにぽつんとおかれているだけで、もう何もない。
最後に残った荷物も運び出してもらった。
あとは私がここを出て行くだけ。
それでお別れ……。
――本当に、この部屋、こんなに広かったんだ。
私の部屋だった場所……。でも、今はもう誰もいない。
……行かないと。
何も忘れ物はないはずだから……。
振り向かずに部屋のドアをくぐる。
忘れ物は……ない、はず。
――写真はおいていく。
そう決めたんだから、戻ったら駄目。振り向いたら駄目。
先輩のことは忘れるって決めた。自分で決めたことなのだから、守らないと。
――でも、決めたのに……。
……守らないといけないのに。
……私……どうして前に進めないの……。
がまんできずに振り向く。
机の上に伏せて置かれた写真立てがそこにはあった。
それだけが、はっきりと色を持って見えて、他には何も見えなくなっていた。
駄目だってわかっても、この気持ちを抑えること……できない。
これくらいは……
――これくらいは……いいよね……。
持って行っても、いいよね…………。
誰にも迷惑掛けないから。
――だから……。
私は写真立てを持って部屋を出た。
もう忘れ物はない。
これは捨ててしまっていいよね……。持って行っても仕方ないから。
教科書……どうしよう。もう柊学園のは使わないと思うけど。これなんか、まだ1度も開いてないのに。少し勿体ない。
でも、もう必要ないから、こうするしかない。
本当は使うはずだったのにね。始めからこうなるのわかっていたら、わざわざ買わなかったのに。
……あとは何を片付ければ…………。
――制服。
これを着て、あの桜並木を通うことも、もうないんだ。
3年間続くんだって思っていたのに。まだ、1年も経ってないのに。もう行くことないんだ。
制服もいらなくなってしまった。
持って行っても使わないんだから……邪魔になるだけなら、おいていくしかない。
まだこんなに綺麗なのに。
「ごめんね」
連れていってあげたいけど、荷物、あんまり増やせないから。
いっしょには行けないんだ。
他に、持って行くものは……。
振り向いて部屋の中を見渡す。
……この部屋、こんなに広かったんだ。
あったものを少しだけ外に出しただけなのに。今までは、広いなんて思ったことなかった。
でも、どうしてだろう。もう私の部屋ではないみたいな気がする。
私の知っているのは、机だけで……まるで空気が違っている。
誰もいない感じがして、すこしさびしい。私はまだここにいるのに、どうしてこんな風に思うんだろう。
やっぱ、今日で最後だからかな……。
――机……片付けないと。
これが終われば、この部屋とも本当にお別れになってしまう。でも、もう決まってしまったことだから。ここで生活し続けるわけにいかないから。
――片付けないと。
机に載った小物をひとつずつ取り分けていく。どれも捨てられずに、なんとなく残してあるような物ばかりだけど。切っ掛けがなくて、捨てる決心がつかなかった。
だけど、今日はもうそういうわけにもいかない。
……これなんて、小学生の頃からある。小さなパンダの置物。どこかさびしげで、じーっとこっちを見ている。
私を責めているの……?
もし、そうでも、全部を持って行くことはできないから……。
どれかひとつだけを選ぶのは公平ではないから……ここにあるものは何も持っていかない。
ほこりをかぶった小さな花瓶。まだ水をさしたことも、花をいけたこともないのに。
これも……いつからあるのか、覚えてない。
あとは……。
――そうか、これがあったんだ。
コルクで作られた小さな写真立て……。中学生のとき、修学旅行のお土産で買ったもの。
笑った横顔……学園祭のときの写真……。
本当はこっちを見て笑って欲しかったけど……写真お願いする理由、思い付かなかったから……。
――鳴海先輩。
*
「失礼します」
――ガラガラ。
……あれ? 先生いないのかな?
いつもなら、お弁当でさえ保健室で食べるひとなのに。めずらしい。
お昼休みだというのに……ここはいつも静か。
グランドからも離れているせいもあるのだろうけど、それにしても……。
足音だけがやけにはっきりと聞こえて、歩くだけですこし緊張する。
保健室の利用ノートをひらいてみる。午前中に1年生がふたり使っただけで、他には何もなかったみたい。
どうしようかな。
先生がいないとなると、お手伝いすることもわからない。ここにいてもあまり意味はないかもしれない。
――でも、何もしないで戻るのも……。
お掃除くらいしていこうかな?
それならやっても迷惑にならないだろうから。
……うん、そうしよう。
掃除の当番がしっかりとやってくれないって、前に愚痴を言っていたから。きっと、喜んでくれる。
用具箱からほうきとちりとりを出して、部屋の隅から掃きはじめる。
埃がたたないようにしないと。
ベッドを仕切ったカーテンをあける。
――っ!
う、嘘っ、誰もいないと思っていたのに。
すやすやと寝息を立てて、寝ている男子がいた。
寝返りをうって、顔がこちらを向く。
――っ!!
せ、先輩っ!?
「………………」
……ノートには3年生が利用しているなんて書いてなかった。
それでも目の前にいるのは、間違いなく先輩だ……。
下がった前髪が目元まで隠して、表情をしっかりと見えることはできないけど……
ここまで近付いて顔を見られるなんて……。
……よかった。
ちゃんと保険委員の仕事に出てきて……。
「………………」
……それにしてもよく眠ってる。
大きな音は立ててないけど、すこしうるさくしてしまったのに……。
……これが先輩の寝顔なんだ。
普段とは違って、どこかあどけない感じがする。
とくん……とくん……とくん……
もっとよく見たい……
先輩の顔……忘れないように……もっと……
とくん……とくん……とくん……
胸がどきどきしてる……。
そっと……目元を隠した前髪を横に流す。
やわらかい髪……これが先輩の髪……。
顔を近づけて覗き込む。
とくん……とくん……とくん……
――ぐっすり眠っているから……起きないよね。
とくん……とくん……とくん……
あたたかい息が頬をくすぐって、急にはずかしくなった。
とくん……とくん……とくん……とくん……とくん……とくん……
――わ、私……なにをしているの……。
でも、起きないなら…………。
……しても、平気かもしれない。
すこしだけひらいた先輩の唇を、いつのまにかみつめていた。
――やだ……本当に何を考えているの……私……先輩になんて……。
けど……こんなに近くにいられること、初めてだから……こんなに近くで見ていられるの、今日が最後だから……。
…………。
顔をゆっくりと近付けて……。
「ん、ん〜ん」
――っ!!
急いでカーテンの向こう側に体を隠す。
とくん……とくん……とくん……とくん……とくん……とくん……
カーテンの端からそっと覗くと、先輩は体を起こしてあくびをしているところだった。
こっちを向こうとしたので、慌てて頭を引っ込める。
「ふぁ〜あ……いま、何時だ? せんせぇ〜?!」
「あ、あの……いらっしゃらないみたいですけど……」
「あ、そうなんだ」
とくん……とくん……とくん……
カーテンの奥からの声を聞くだけで、鼓動が早くなっていく。
――私、先輩と話をしている……。
「保険委員のひと?」
「え、ええ、そうです」
「悪いんだけど、何時か教えてくれるか?」
「もう1時を回って……あと5分でお昼休みも終わります」
私もそろそろ戻らないと。次の時間に遅れてしまう。
「そっか……もう、そんな時間か」
「はい」
「でも、なんか、まだだりぃから……もうちょい寝る」
「あ、あの、それでしたら、名前……教えていただいてよろしいでしょうか?」
「ん?」
「利用者ノートに書いておかないと」
「ああ、そうだった。すっかり忘れてた。鳴海孝之って、書いといて」
――なるみ……たかゆきさんか……。
先輩は一文字づつ、漢字を説明している。
鳴……海……孝……之……
先輩の名前……初めて知った。これからは鳴海先輩って呼べる。
「んじゃ、おやすみっと」
「はい、おやすみなさい」
カーテンの向こうからもぞもぞと音が聞こえてきた。
――鳴海先輩……。
*
……忘れたほうがいい。
ただの片思いなんだから。
それだけで済む。
簡単なことのはず……。
もう、声を聞くことも、姿を見ることもない。覚えていても、何もできない。たぶん、つらい想いをするだけ。
明日になれば、もうここではない、ちがう部屋で荷物を整理している。
思い出で終わるんだ。それでいい。
――写真、持っていかないほうがいい。
あるとまた飾ってしまうと思う。
きっと、今しかできない。持っていったら、捨てることできなくなりそうだから。ここで忘れておかないと。また、捨てる切っ掛けがなくなって、いつまでも引きずってしまう。
窓からさし込む夕陽が部屋に長い影を作る。
そろそろ行かないと……。
写真立てを倒してからゆっくりと立ちあがる。部屋を見渡すと、本当に別の部屋にいるみたいだった。
机だけが取り残されたようにぽつんとおかれているだけで、もう何もない。
最後に残った荷物も運び出してもらった。
あとは私がここを出て行くだけ。
それでお別れ……。
――本当に、この部屋、こんなに広かったんだ。
私の部屋だった場所……。でも、今はもう誰もいない。
……行かないと。
何も忘れ物はないはずだから……。
振り向かずに部屋のドアをくぐる。
忘れ物は……ない、はず。
――写真はおいていく。
そう決めたんだから、戻ったら駄目。振り向いたら駄目。
先輩のことは忘れるって決めた。自分で決めたことなのだから、守らないと。
――でも、決めたのに……。
……守らないといけないのに。
……私……どうして前に進めないの……。
がまんできずに振り向く。
机の上に伏せて置かれた写真立てがそこにはあった。
それだけが、はっきりと色を持って見えて、他には何も見えなくなっていた。
駄目だってわかっても、この気持ちを抑えること……できない。
これくらいは……
――これくらいは……いいよね……。
持って行っても、いいよね…………。
誰にも迷惑掛けないから。
――だから……。
私は写真立てを持って部屋を出た。
もう忘れ物はない。